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未払残業代とIPO審査の実務

2008/10/30

~ AZX Coffee Break Vol.14 〜

ベンチャー企業においては、労務管理が十分でなく、残業代が適切に支払われていない会社も見受けられる。しかし、近時のIPOの引受審査(以下「IPO審査」という。)では未払残業代につき金融商品取引所、証券会社等により厳しく審査される傾向にあり、IPOを目指す会社はIPO審査の過程で問題の解消を求められることが多い。そこで、本稿では未払残業代に関して多く問題になる点につき、特にIPO審査における実務的処理の観点から述べる。なお、IPO審査に関する記述は執筆時の筆者の経験に依拠しており、事案により異なる処理がなされる可能性、IPO審査の傾向が変化する可能性がある。

(1)労務管理体制の確認 審査においては、労務管理体制に関し、労務管理規程及び各種制度の導入の適法性がチェックされる。未払賃金との関係では、就業規則、給与規程等の労働基準法(以下「法」という。)への適合性がチェックされる。問題になる例として、割増賃金の算定基礎賃金の算出において、含めるべき手当が含まれていない、あるいは計算方法が法令に則っていない例や、遅刻等の端数処理で切り捨てるべきでない時間を切り捨てている例などがある。また、就業規則や給与規程は適法であっても、年俸制と称して未払残業代を支給していないケースや、管理監督者の範囲を著しく広げて取り扱うことにより、支払うべき残業代を支払っていないケースも多く見受けられる。また、時間管理ができないとの説明を受けることも多いが、適切な労務管理のためには時間管理が必要であり、タイムカード等での時間管理が求められる。就業規則等の変更手続の適法性も重要である。労働者に不利益な就業規則の変更は、労働条件の統一的処理の要請に照らして合理性ある変更である場合のみ労働者の個別の同意なく行うことができると解され、この点の判断は微妙であるため、実務上は労働者の個別の同意を得ておく方が安全であることも多い。また、行政官庁への届出、労働者への意見聴取など労働基準法に定める手続をとる必要がある。裁量労働制やフレックスタイム制度等についても、適法な導入に必要な労使協定や届出が適切になされているか、規程どおりの運用がなされているかについてチェックされる。

(2)過去の未払残業代の精算 IPO審査においては、過去の未払残業代について精算を求められることが多い。法令遵守という観点からはもちろん、未払残業代は隠れた債務であって財務諸表等の記載の正確性に影響するという観点からも問題となる。また、未払残業代が社会問題化していること、未払残業代の額が多額になる事例が見受けられることからも、IPO審査においては未払残業代は重要な問題とされる。以下、過去の未払残業代の精算に関し実務上よく見受けられる問題について述べる。

①労働時間の算定 残業代が適切に支払われていない会社においては、そもそも労働時間が把握されていない事例も多い。しかし、労働時間を把握していなければ未払残業代がなくなるというものではないため、IPO審査の過程では何らかの手段により未払残業代を合理的に推計して清算することを求められることが多い。いかなる手段で推計するかは事案によるが、PCのログなどのデータを用いたり、労働時間を適切に管理し始めてからのデータを用いたりすることなどが考えられる。外勤の営業職が直行直帰する場合のように、従業員が事業場外で勤務した場合で、労働時間を算定し難いときがある。このような場合には、原則として所定労働時間労働したものとみなされ、当該業務を遂行するために通常所定労働時間を超えて労働することが必要となる場合は、通常必要とされる時間労働したものとみなされる(法第38条の2第1項)。しかし、事業場において、訪問先、帰社時刻等当日の業務の具体的指示を受けたのち、事業場外で指示どおりに業務に従事し、その後事業場に戻る場合のように、会社の具体的な指揮監督が及んでいる場合には労働時間の算定が可能であるのでみなし労働時間制の適用はないことに留意が必要である。

②計算方法 時間外労働については基礎賃金×1.25、休日労働については基礎賃金×1.35、深夜労働については基礎賃金×0.25の手当てを支払う必要がある。基礎賃金の計算方法については法施行規則第19条において月給、週給、日給等に応じて定められており、これに基づき計算することになる。家族手当、通勤手当その他法施行規則第21条各号の賃金は、基礎賃金に算入しないことができるが、これ以外の手当は原則として基礎賃金に算入しなければならないことに留意する必要がある。

③従業員との合意 残業代が支払われないことについて従業員が納得していると会社が主張する例がある。しかし、法で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分について無効とされ、無効となった部分は法で定める基準による(第13条)。したがって、残業代を支払わない旨合意していたとしても、法に定める割増賃金は未払債務として存続する可能性がある。IPO審査の観点からは隠れた未払債務があることは看過できないことから、従業員が納得している場合であっても、未払残業代の精算を求められることが通常である。また、残業代が基本給、職務手当等に含まれていると会社が主張する例がある。しかし、基本給、職務手当等に時間外労働手当等を含めるには、割増賃金部分が明確に区分された合意がされること、法所定の計算方法による額がその額を上回るときはその差額を当該賃金の支払期に支払うことが合意されることなど一定の要件を満たす必要があり、かかる要件を満たしていなければ、基本給、職務手当等とは別途時間外労働手当等を支払う必要がある。過去に生じた未払残業代を放棄する旨の確認書を会社が従業員から取得している例も見受けられる。しかし、既発生の賃金債権を放棄する意思表示の効力を肯定するには、それが労働者の自由な意思に基づいてされたものであることが明確でなければならないと解されており(最高裁二小昭和48年1月19日判決)、本来受領できるはずの残業代を放棄するということは通常は自由な意思に基づくものではないと推認される可能性があり、IPO審査の過程では未払残業代を放棄する旨の確認書を取得するのみでは問題解決には不十分と判断されることもある。

④精算の範囲 過去の未払残業代の精算を求められた場合、過去どの程度の期間について精算するかが問題となるが、法の規定による賃金の請求権は2年間(ただし退職手当については5年間)行使しないと時効消滅するとされるため(第115条)、IPO審査の実務においては2年分遡って精算するのが通例である。ただし、残業代の未払いを不法行為として3年分の支払を認めている裁判例(広島高裁平成19年9月4日判決)があることに留意すべきである。残業代が未払いとなっている従業員が退職している例もある。退職により未払残業代債務が消滅するものではないから、IPO審査においては退職者との精算も求められることも多い。しかし退職者と連絡が取れない場合などもあり、未払額の財務的な影響を考慮して対処を決めることになろう。未払残業代の精算について、IPO審査の実務上はある種の和解として未払残業代の元本を支払えば遅延損害金まで問題視しないこともあるが、理論上は遅延損害金が生じる。会社の賃金債務の遅延損害金の利率は原則として商事法定利率(年6%)で計算されるが、賃金の支払の確保等に関する法律第6条第1項により、事業主が退職労働者に係る賃金を退職日(退職の日後に支払期日が到来する賃金にあっては、当該支払期日)までに支払わないと、その日の翌日から年14.6%の遅延利息を支払う必要があるとされる。

⑤IPO審査の手続 未払残業代を精算する場合には、従業員との間で、未払残業代の金額を確認し、それ以外に未払となっている賃金がないことを確認する合意書を締結しておくのが通例であり、IPO審査で合意書の提出を求められることがある。また、過去の未払残業代の精算が適法になされたことについて、会社の顧問弁護士の意見書の提出を求められることもあるため、未払残業代の精算にあたっては早めに顧問弁護士等の専門家と相談した上で、意見書の提出を視野に入れて対応するのが安全である。

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